











沼島について
沼島は小代などと違って、古くから中央の文献にその名をとどめていた。{有名な万葉集の歌に「あかときに、
かじのときこゆみけつくに、ぬじまのあまの 舟にしあるらし」などの歌はとくに名高い。}のように万葉や古今
の歌人はすでにその名を知っており、太平記には後醍醐天皇の一ノ宮尊良親王の御息所が松浦の海賊船に乗
せられて、この沼島に漂着し、三年の間滞在して沼島女郎の伝説を残して去る。
南北朝時代には紀州、瀬戸内の水軍と手をにぎり、この島で兵船二百隻をととのえた事がある。
天正年間に梶原秀景の時代に細川、三好氏の末のころ沼島の梶原氏も亡び、秀景は沼島の「殿のとび」から
馬上で入水したという。
太閤秀吉が畿内を統一したころ、海賊衆は漁師の正業に就かされて、一部は回船業をいとなみ、室町、江戸
時代を通じて遠く対州や五島までの遠洋漁業にはげんだ。 又一般の漁師は阿波蜂須賀公の下にあって、殿様
が参勤交代などで江戸へ上るなどのさい安宅ご用の加子として徴せられ、毎年百四十三人が浦役として沼島の
海で漁をし、他国へ出稼ぎにでることを禁じられていた。この代り沼島の五里四方の海は、沼島の海として与え、
他国の漁師に優先する権利をあたえられていた。
沼島を代表する漁業の一つに鱧なわ漁がある。嘉永元年には沼島に七十一隻のはもはえなわ組があった。
土佐日記と沼島・・・土佐日記は延長八年(九三〇)から承平五年(九三五)任地土佐にいた紀ノ貫之が、任期を
おえて京にのぼった、海路のいろいろの出来事を日記として誌したもので、紀行文のはじまりとして有名なもの。
この土佐日記の中に一月(旧暦)の末に沼島の沖を通るもようが次のように誌されている。
「三十日西風吹かず、海賊は夜歩きさせるなりとききて、夜半ばかりに船をいだして阿波の
水門をわたる。夜半なれば西東も見えず、男女からく神仏を祈りて、この水門をわたりぬ。
寅卯(五時頃)の時許りに沼島というところをすぎて和泉の灘というところに至りぬ今日海に
波に似たるものなし、神仏の恵蒙むるに似たり。今日舟にのりし日より数うれば三十日余り
九日になりにけり、今は和泉のくにに来ぬれば海賊物ならず。」
「沼島物語」より
今後少しずつ増やしていきたいと思っています。
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