| 紀元前 | イザナギ、イザナミの両神、おのころ島(沼島)に降り立たせられ、 国うみなし給う。新石器時代に泊の荒神の森、観音堂の裏あたりに 聚落起こる。(出土品より) |
| 貞観4年 (862) |
京都石清水八幡宮の分霊を勧請して、賀集八幡宮を創建せられる。 履仲記によれば沼島の海夫が宮中の紛争に加担して処罰せられ、後に 許される。 |
| 元慶4年 (880) |
沼島神宮寺創建せられる。本尊は恵心の作であるといわれる。その頃、 万葉集に沼島の海夫うたわれる。 |
| 承平5年 (935) |
紀貫之、土佐より帰任のみち海賊の来襲に悩まされつつ、沼島沖を渡る。 |
| 天慶3年 (940) |
瀬戸内の海賊藤原純友が乱を起こした際、島主武島ノ五郎秀之はこれに 加わり、自分の策が用いられず、九州筥宮崎の戦いに一族十三騎ことご とく討死する。 |
| 正暦3年 (993) |
源忠良、鳴門(土佐泊り)と沼島の海賊を討つ。 |
| 寿永2年 (1183) |
能登平教経は、福良鶴島の城に源義次並びに淡路冠者源義久を破る。 源義経、梶原景時等、平家追討のため相次いで沼島を通り、阿波の国勝浦 に向かう。 |
| 元暦元年 (1184) |
大津波淡路を襲う。阿万の八幡宮(当時は海岸にあった。)海へ流失した が、後日、大亀の背にまたがってご神体が戻ってきた。 |
| 文治2年 (1186) |
源氏の佐々木経高、頼朝の命をうけ、阿波、淡路の守護職となり、養宜 (八木)に館を築く。 |
| 正治2年 (1200) |
沼島城主梶原氏の祖、梶原景時、源頼朝の死後失脚し鎌倉を出奔、尾張の 国狐崎にて野武士の襲撃をこうむり、景時は戦死し、一族は離散した。 沼島の梶原氏はその一族であろうと古書にある。 |
| 元弘元年 (1331) |
元弘の変にて後醍醐天皇の皇子一宮尊良親王、土佐の国の畑という所に流 され給い、そのみやすどころ(妃)は鳴門から小舟で沼島に漂着し、三年 の間滞在して沼島女郎伝説を残して去る。同年大楠公、河内に挙兵し、 島人本田徳郎右ヱ門亟は、楠公の傘下にはせ参じ、金剛山に於いて抜群の 功あり、感状を賜わる。 |
| 延元元年 (1336) |
大楠公が湊川にて戦死をとげた際、本田徳郎右ヱ門亟、 主君と共に忠死をとげる。 |
| 興国元年 (1340) |
新田義貞の弟、脇屋義助の軍船300隻、紀州田辺より沼島に渡り、 志知氏、阿万氏小笠原氏等の接待を受け伊予に向かう。 |
| 興国4年 (1343) |
足利氏の一族細川和氏の子細川師氏、淡路の南朝方を平らげんとて、 阿万より福良を経て賀集に討ち入る。宇原入道永真はこれを立川瀬に 迎えて戦死をとげる。その直後、沼島島主梶原太郎左ヱ門は、細川方 の注進船が沼島沖にさしかかったのを師氏の軍の来攻とみて細川頼春 の軍と交戦して後、降伏する。 |
| 正平5年 (1350) |
その頃安宅藤五郎、紀州より淡路に移り由良に城を築き、沼島の海賊を |
| 正平6年 (1351) |
足利将軍義詮より紀州の豪族安宅藤五郎頼藤に対し、沼島海賊を退治 せよ、との令状下る。安宅氏由良に城を築く。 |
| 正平16年 (1361) |
鳴門、淡路に大津波が起こり、鳴門が干潟となり、淡路から渡れるよう になった。この頃淡路の細川清氏は南朝方に与みし淡路の海賊衆はみな これに従った。 |
| 永享8年 (1436) |
梶原景俊、沼島八幡宮を創建する。縁起には梶原景時の創建とあるが、 祖先の名で建てたのであろう。 |
| 応仁元年 (1467) |
京都の戦乱沼島に及び、島民離散し、沼島の戸数は一時、32戸となる。 |
| 文明7年 (1475) |
細川淡路守成春は深く仏法に帰依し、淡路三十三番の観音札所を開く。 |
| 永正4年 (1507) |
細川淡路守尚春は、三好長慶の軍と戦い鮎屋の滝に於いて、子忠若等一族 自決して、細川七代の淡路の治世は終わった。 |
| 永正17年 (1520) |
細川尚春の子彦四郎は阿波細川純元の軍に従い、京都に戦ったが、父の仇 |
| 大永元年 (1521) |
足利十代将軍義稙は流浪の末、沼島に来り、沼島庭園などを残す。 |
| 天文2年 (1533) |
沼島八幡宮、西光寺など再建せられる。当時の沼島城主は梶原越前守景節 であった。 |
| 天正8年 (1580) |
梶原秀景、沼島八幡宮を再建する。この年阿万城主郷丹後守、郷備前守父子 と戦い、之を殺す。 |
| 天正9年 (1581) |
梶原秀景、阿波の三好勢の攻撃を受けて、沼島浦、殿とびの岩頭より入水 して果て、梶原氏200年の治世終わる。 |
| 天正19年 (1591) |
淡路由良にて太閤秀吉、朝鮮征伐準備のため唐船造り始める。由良の港にゃ 唐船造る柏原山にゃ、つちの音。 |
| 文禄元年 (1592) |
文禄の役起こり、加藤、脇坂両水軍に水夫として従軍し、その後五嶋、 対州へ漁師として渡航の途ひらける。沼島浦、海商浜崎屋仁右ヱ門創業する。 五嶋、対州、朝鮮方面への出稼ぎ始まる。 |
| 慶長9年 (1603) |
一国一城の令により、阿波藩は徳島、洲本の城を残し、他は全部とりこわし となる。洲本城主脇坂安治の支配下に入る。 |
| 元和元年 (1615) |
大阪夏の陣起こり、蜂須賀家政の軍は徳川方に加わり、沼島に風波をさけて 水軍滞留する。 |
| 寛永元年 (1624) |
沼島に暴動起こり、島民一時離散したために阿波板野郡住吉村より助左ヱ門、 弥兵ヱの2名、庄屋として沼島に赴任する。 |
| 寛永5年 (1628) |
沼島周辺、由良塩崎の間、栗石を採ることを禁止せられる。 |
| 寛永23年 (1646) |
米、麦、雑穀等を沼島より移出することを禁止し、宮の下に制札を立てる。 制札場という。 |
| 万治元年 (1658) |
讃州より継舜という傑僧が来島して八幡宮、神宮寺を再建した。神宮寺は 京都御室の仁和寺の末寺となった。 |
| 延宝元年 (1673) |
淡州庄司家の子孫、相生国六呂太夫沼島八幡宮の神官となる。(初代) |
| 延宝3年 (1675) |
田打ノ庄司の子孫相生国田打太左ヱ門、沼島に於いて死去する。 |
| 延宝7年 (1679) |
泊にあった蓮光寺の鐘を新鋳する。 |
| 貞享3年 (1686) |
西光寺本堂再建。 |
| 貞享4年 (1687) |
瀬戸内を大台風が通り民家12,800戸を流失する。 沼島の庄屋は太呂太夫、平兵ヱ 両人である。 |
| 元禄元年 (1688) |
沼島浦庄屋、太郎左ヱ門、又助両人。 |
| 正徳2年 (1712) |
八幡宮、神宮寺を大改修する。神宮寺空敬上人、神宮寺再建縁起を書く。 この頃対州五嶋などへの遠洋漁業盛んとなる。西村豊後守銘の御鏡を 八幡宮に納める。 |
| 享保15年 (1730) |
相生国太左ヱ門に関する古文書のことで藩主よりお尋ねあり。浦役人より 返書する。この頃全国的に飢饉起こり、沼島でも一年間に300人の死亡者 があった。(西光寺だけで100人の死者が出ている)。阿波藩より銀札 「一匁」を魚屋寺沢名義にて発行、この銀札は明治維新まで通貨として使用 した。 |
| 享保18年 (1733) |
井筒屋弥三兵ヱら海商として活躍する。宝瑞丸、宝永丸、伊勢丸、宝悦丸 などの船名が残っている。 |
| 安永8年 (1779) |
蓮光寺、泊より城山に移り、浜崎屋仁右ヱ門らの奔走により再建せられる。 海部屋、井筒屋、中元屋、泉屋などの海商大いに活動を始める。 |
| 天明6年 (1786) |
大阪ざこば〆田源右ヱ門、〆田長右ヱ門より八幡宮拝殿前に大石灯篭を 寄進する。この 頃地高三百五十五石余である。 |
| 寛政11年 (1799) |
八幡宮の大造営を行う。 その頃の庄屋は多田新之助、〆田貞右ヱ門、 世話人は浜崎屋三幸右ヱ門、吉野家銀右ヱ門、難波屋孫左エ門、土佐屋 儀平等であった。同8年沼島に始めて魚五分一所をおき、漁師の水揚げの 内、十分の二を税金として納めた。 |
| 文化6年 (1809) |
沼島生まれの浄瑠璃の名人、あずま翁死して門人より泊観音堂に建碑する。 門人一同として多田、榎本、浜仁、海素明、紀伊、宮八、芳権、吉甚、 扇屋等の名が刻まれている。 |
| 文化10年 (1813) |
海商の最盛期となる。海部屋半冶、海部屋清右ヱ門、井筒屋弥三兵ヱ、 泉屋源次郎、泉屋弥五市、魚屋源四郎、中本屋金右ヱ門、吉野家権右ヱ門、 など活躍する。文化9年頼山陽淡路に遊ぶ。沼島に遺墨あり。大阪、 淡路屋正兵ヱ、宮川井戸を寄進する。 |
| 文化14年 (1817) |
西光寺の鐘堂完成する。中ノ丁兵右ヱ門らの奔走により、大日堂の行者堂を 再建する。 |
| 文政4年 (1821) |
南の丁に観音堂を建立して西国三十三番の札所の仏像三十三体を納める。 |
| 文政8年 (1825) |
浦役人より浦若者共へ、祭りのさいのだんじり、みこしのひき方等に ついて申渡条、 定書きが渡される。 |
| 天保2年 (1831) |
画家芦鶴来島して、北ノ丁平太の家に寿老人と亀の図遺す。伊万里焼の 陶器類を珍重する。(中本屋金右ヱ門ら) |
| 天保7年 (1836) |
凶作年となり、分一所の金を浦どめとして困窮者の救済にあてる。 |
| 天保13年 (1842) |
浦会所役人より年行司、船裁判、若者共へ改めて申渡定書示される。 |
| 天保14年 (1843) |
全国的に飢饉起こり、沼島へ米麦の移入絶えて浦人大いに困窮する。 世にこれを三百目年と呼んだ。 |
| 嘉永元年 (1848) |
沼島浦に鱧延縄組が71艘あり、安宅御用(水兵)の加子頭が144人 あって、年に銀二十匁を手当てとして貰っていた。この年八幡宮の石段 (男坂四十二段)を浦の北組一同より寄進する。画家燕石来島して、 鳴門刈藻之図をかき遺す。(蓮光寺)或いは日 柳(くさなぎえんせき) であろうか。 |
| 安政元年 (1854) |
この年大地震起こり大津波にて港、波止場を大破した。 下立神の頂崩れ落ちる。 |
| 文久3年 (1863) |
阿波椿泊浦、阿戸浦の漁師頭と鱧縄用の餌魚議定事を定める。 |
| 元治元年 (1864) |
藩役人へ沼島漁業の実状を報告する。五島、対州、岩見へ約200隻、 阿波、土佐、紀州、 伊勢などへ約100隻出漁していた。 人口4,300人。 |
| 明治元年 (1868) |
明治維新なり。大庄屋、庄屋、年寄、五人与の制度廃止する。 |
| 明治二年 (1869) |
八幡宮の境内を改修する。世話人は喜兵衛、甚右ヱ門である。 |
| 明治三年 (1870) |
廃藩置県により名東県三原郡沼島村となる。 |
| 明治4年 (1871) |
沼島村の戸数は772戸、人口は3,617人であった。この年男女の 混浴を禁止せられる。また島民が羽織袴を使用してもよいこととなる。 この年大工竹林徳三郎、洲本御蔵大工御用を命ぜられる。 |
| 明治9年 (1876) |
現在の兵庫県に編入、三原郡沼島村となる。 |
| 明治10年 (1877) |
銀札本位より円制度の金銭本位に代わる。銀375匁は金3円である。 また1朱は3円、銀1匁は8厘(当100銭1枚)であった。 (中ノ丁惣代買物控より) |
| 明治12年 (1879) |
コレラ阪神方面に大流行してついに沼島に波及し、多数の死者を出す。 |
| 明治17年 (1884) |
従来の石掛り税制は一種の物品税であるからとの理由で継続できなくなり、 新たに戸数 割りを設ける。 |
| 明治20年 (1887) |
春季、鯛五智網船などの入漁が盛んであった。そのさいの波止場銭はまとめ て1円75銭であった。対州行き、五嶋行きの遠洋漁業は明治に入りて急激 にすたれ、僅かに土佐行き、紀州行きなどを引き続き行う。 |
| 明治21年 (1888) |
八幡宮の本殿改修を行う。竣工式の前夜火災起こり、社殿を全焼(不審火) 竹林徳三郎氏棟梁となり、新たに立て直す。 |
| 明治23年 (1890) |
近年不漁つづき、特に8月9月大いに困り島内に村税の滞納者が続出して、 役場の運営にこと欠く有様であった。 |
| 明治28年 (1895) |
日清戦争勃発に伴い、島内に尚武会を結成する。 |
| 明治29年 (1896) |
旧7月9日の夜、いわゆる「キモチ事件」起こり、安なる青年、男女4人を 殺害し、放火の後沼島山中にかくれ、山狩りの後旧7月13日七松谷で捕ら えられた。この年、中元幸三郎氏「てんぐさ」の養殖をはじめる。 |
| 明治37年 (1904) |
沼島村長扇力蔵氏は国有保安林沼島山の払下げ方を当局に陳情する。 |
| 明治42年 (1909) |
国有保安林沼島山払い下げ認可に基づき、吉野甚平氏の斡旋で、在横浜の 土建業広嶋徳次郎氏の力により金5,000円で沼島村有林となった。 |
| 大正元年 (1912)*明治45年 |
山野音松氏、大阪ざこばの生魚商神平組と結び、株式会社山神組を創立、 朝鮮南部に雄飛する。 9月22日の夜半台風襲来、大時化となり、港内 の波止、道路などを大破する。世にこれを大正時化と言う。この頃サノサ節、 オウリョク江節など流行する。 |
| 大正3年 (1914) |
地理学の権威志賀重昂氏、来島して別宮家旅館に滞在する。 浪花節(チョンガレ)流行する。 |
| 大正6年 (1917) |
吉野甚平、扇協両氏の発起で主として山神組山野鶴松氏の出資により 沼島電気(株)を創立して、沼島に始めて電燈ともる。この頃素人相 撲大いにはやり、淡路本島より小波ら沼島の浜口仁太郎氏らと競う。 |
| 大正7年 (1918) |
欧州大戦の軍事景気で沼島も大いに活況を呈する。大阪、神戸、横浜方面 への出稼ぎ盛んになる。 |
| 大正11年 (1922) |
不漁のため漁芝居(人形芝居)を年2回村役場の主催にて行い利益300円 を得て5部落に分配する。この頃古水の浜にて運動会を行う。 |
| 大正12年 (1923) |
酒井米一訓導、運動会の愛唱歌「神のつくりしおのころと由緒も深きこの島 を我が帝国の紀元ぞときくさえいとヾかしこけれ」の歌詞を作る。徳島の文学 博士喜田貞吉氏ら紀伊川丸で來島する。5月一般通信用として沼島無線電信局 設立される。当時村長は扇協氏、局長は牧野卯三郎氏であった。岩田なつさん らの奔走によりおのころ山におのころ神社再建せられる。 「籠の鳥」「枯れすゝき」などの歌流行する。 |
| 大正13年 (1924) |
泊の南谷北谷の境界紛争円満に解決する。青年有志の奔走により沼島会を 結成して毎月会誌を発行するなど大いに文化活動を始める。この頃小学生は、 石盤石筆にて文字を習う。 |
| 昭和元年 (1926)*大正十五年 |
中谷小学校長らのすゝめで養兎業大いに活況を呈する。詩人富田砕花 「沼島見えたりかくれたり」の沼島小唄を作る。 |
| 昭和2年 (1927) |
小学校浜の運動場できて、古水浜の運動会は前年度をもって消滅する。 昭和3年(1928)御大典事業として沼島一周道路を新設して 八十八ヶ所の地蔵尊を移す。 |
| 昭和5 (1930) |
沼島小学校相撲部、三原郡大会に初出場して個人団体共に強敵福良を 破って優勝する。 |
| 昭和6年 (1931) |
毎日新聞の日本新八景の後沼島会消滅状態となる。 |
| 昭和8年 (1933) |
俳人菱田是佛氏ら主催の「おのころ俳句会」八幡宮への献納句集なる。 「舟はいま島をはなるゝほととぎす 是佛」 |
| 昭和9年 (1934) |
9月23日未明空前の大時化室戸台風まともに沼島を襲い、港波止場及び 海岸道路は、かい滅状態となり、死者10名余を出す。 「百船を鵜呑みに台風津波哉 是佛」 |